和尚のブログ

2014-6-11

坐禅のやり方ーー心を調える

 心の様子を次のようにたとえてみます。心を水面に、苦しみ・煩悩を石にたとえます。自分自身だけでなく他人も水面に石を投げ込んでいます。それは、自分が望む、望まない、に関係なく石を水面に投げ込んでいます。
 心を調えるというのは、石を水面に投げ込まなくさせればいいのです。思考をすることをやめ、数息観(呼吸の吐く回数を一から十まで数える)をしていくと、心は静まっていきます。
 すると、水面上に石を投げて出来た波紋が、次第になくなり、水面が一枚の大理石のように輝き鏡となって全てを映し出します。 鏡となって水面に映った物が、「悟り」というものです。心を調えていくと、自ずと体得できるのです。ですから、坐禅をする事で、体調が良くなったり、精神的にスッキリしたりするのはあくまでも、副産物であり、坐禅の最終目的は「悟りを開く」事です。
 では、「悟り」とは何んでしょうか。国語辞典には、『迷いからさめ、真理を会得した境地。』と解説されています。
 迷いとは、石であり、石を投げ込んで出来た波紋です。石を投げ込まず、波紋を静めたときに真理が見えてくるのです。ただ、その真理も一瞬でしか見えてこないものです。見えたものが時には偽物であったりします。
 だから、我々臨済禅においては公案と言って、禅問答をすることで、見えていたものが本物かどうかを師匠に確認してもらうのです。その確認作業は、半端なものではありません。時には、師匠の前で裸になったり、時には、師匠を殴ったりします。それは、それは、師匠も弟子も命がけです。
 命がけにならないと、真理は見えてこないのです。なぜなら、それだけ、真理を隠す人間の持った煩悩が厚く私達を包んでいるからです。今、私達がまとっている煩悩は、今まで学んできた知識・知恵だから、なかなか脱ぐ事は出来ません。脱ぐことは、今の自分を否定することになるからです。
 否定する作業はとても怖いことですし、恐ろしいことです。が、それを行わないと、次のステップを踏むことは出来ません。やるしかありません。恐れていては、何時までも同じ事を繰り返してしまいます。
 全てを脱ぎ捨てた時、真理が見えてきます。始めはぼんやりと。次第にはっきりとしてきます。すると、真理が見えたかと思った一瞬、全てがまっ白になってしまうのです。そして、……。
 それから先は、私は文字にすることは出来ません。なぜなら、それ以上の境涯にはまだ至っていないからです。
 しかし、その境涯に至っていたとしても、文字にすることは意味がないでしょう。それは、各自が体得することだからです。
 「禅」は難しいと良く聞きますが、その訳は、教えてもらうものでなく、自ら体得するものだからだと思います。
 理屈を捏ねておりましたが、まずは坐ってみることです。そこから始まります。理屈は二の次、三の次です。体を調え、呼吸を調え、そして心を調えていった坐禅を繰り返し、繰り返し行います。そうした生活をしているうちに、何気ない出来事が「悟り」を開くことになるのです。
 ある和尚さんは、草の露を見て悟り、ある和尚さんは、師匠に叩かれて悟り、と多くの逸話が残っています。
 今の世の中、先が見えずに迷っている人がたくさんいます。迷っている人の多くは、自らを知っていません。外に答えを求めるから迷うのです。心を調え自らを知るところから初めて下さい。いい答えがありますので。

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