「田を植え飯に博えて喫し、脚を伸べて床上に睡る。」(大應国師)
大應国師は、駿河の地でお生まれになり鎌倉建長寺で修行されました。後に宋に渡り径山で修行をされ、虚堂智愚禅師の教えを継いで帰国。才能を買われて博多崇福寺の住職をしながら幕府の外交官をされました。京都万寿寺に移られて、晩年は鎌倉建長寺でおくられました、鎌倉時代の禅僧です。
最近、いとこにこんなことを言われました。比叡山延暦寺の座首で千日回峰行をされた酒井雄哉(さかい ゆうさい )大阿闍梨がインタビューで「千日回峰行をされて変わられましたか?」の質問に「何も変わっていません。」と言われてさすが本物だ。あのとき、変わりましたと言われたら、がっかりしたと。なぜかと聞くと、修行して変わるもんなら、それは偽物だと言うのです。ん~、深いですよね。あなた分かりますか?分かったあなたは、大した者です。
悟りは何か特別な力を得たりするのではなく、すべての営みがすっかり見えてくるだけです。悟ったからと、何も変わりはありません。日常生活を何事もなくおくっていく。春、田に稲を植えて、秋、実りそれを収穫してご飯として食べる。朝起きて仕事をして、夕方帰ってきて足を伸ばして床で寝る。自然の成り立ちの中で、食べ物を得て、一日を過ごしていく。まさに安心した日送りです。そこには、仏様が天を守っていただいているから、そのご加護があるから私達は生きていける。有難いことです。 おかげさまでこうして生きていけていることをもう一度感じていただきたく、今月の言葉をこれにしました。この言葉には深い意味はありません。そのままの意味です。今の日本人は、どうかすると、自分達の力で生きているのだと勘違いしている人が多すぎます。いいえ、仏天に守られて生かされていることをもう一度感じていただきたいです。「田を植え飯に博えて喫し、脚を伸べて床上に睡る。」こうしていられるもの、仏様のお陰です。
おかげさまで、有難い。と思ったときに自然に出るのがお念仏「ナムアミダブツ」です。